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人の生体情報を取得して役立てたい

スポーツと技術、相反する分野と思われていた両者が接近しつつあります。
中でも注目を浴びるのが、NTTが中心となって開発した「hitoe(ヒトエ)」。
これは東レの新素材を用いた衣服型のバイタルセンサーです。
開発担当であるNTT物性科学基礎研究所の塚田信吾氏に聞きました。

IoTが進展したとき、人の生体データという
ユーザーに最も近いデータを取得することは、究極の目標です。

IoTの進展が生むビジネス

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医学分野での経験が生きる

───塚田さんの所属されるNTT物性科学基礎研究所では、どういう研究がされているのでしょうか。

当研究所では、主に物理学系の研究を行っています。量子コンピューティングや光通信など先端的な基礎研究です。その中で、私は初の医学系出身者です。

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NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部 分子生体機能研究ブループ 上席特別研究員(主幹研究員)塚田信吾さん

私たちのグループが取り組んでいるのは、バイオとマテリアルサイエンス、つまり生体と素材の融合領域の研究です。化学の専門家や工学などエンジニアリングの専門家もいれば、私のような医療系の専門家もいて、それぞれバックグラウンドの違う人間が融合的な研究をしています。

───医学分野から物性研究に移られた動機とは、なんだったのですか。

私は元々外科医でした。手術の時はバイタルサインと言って、心拍数などのモニターを見ながら治療します。患者さんの身体に粘着式の電極を貼るのですが、手術場は濡れることが多くて、電極が外れてしまう。すると、アラームが鳴ってヒヤっとすることが結構あるんです。

患者さんの心電図を測る精密検査は、場合によって数日間にわたります。すると電極を貼っている場所がかぶれることが多いのです。生体電極は、判定結果次第で命に関わるほど重要な割に、まだまだ中途半端だと痛感していて、いつか良い電極を作りたいと思っていたのです。

IoTの本命としての衣服型

───それが、低侵襲・非侵襲型の電極である「hitoe」というバイタルセンサーの形になったのですね。

hitoeは、人間のような生体と、金属などの電子系をつなぐ技術を研究する過程で生まれました。人や生物の体は親水性、通信に使われる電子回路の世界は金属やシリコンなどの疎水性ですから、水と油のように完全に相容れないものです。人を知るために重要な技術であるにも関わらず、これまであまり素材の研究が進んでいませんでした。
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生体電極に適した素材を探す基礎的な研究の過程で残ったのが、導電性高分子です。この素材は電気が流れるプラスチックのようなもので、ノーベル化学賞を受賞された白川英樹先生らが発見しました。導電性高分子の中には水を多く含む親水性の特徴を持つものもあり、ちょうど水と油のように異質なものをつなぐ材料として最適なものだったのです。

ただし、導電性高分子は非常に弱い物質でそのままの状態で使用するには不向きな材料なので、繊維にしっかりと固定して、糸や布にすることにしました。
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極細繊維のナノファイバーと、電極に使う柔らかい電気を流す導電性高分子素材を組み合わせて「hitoe」と名付けました。

───東レとの技術開発で「布」にしたことで、一般的に使える素材となったんですね。

そうです。身体に優しくて、肌触りが普通の生地に近く、電気もよく通し、透湿性のある、かぶれにくい電極を作ることができました。

「C3fit IN-pulse」は市販化されたウェアラブルセンサーですが、裏側のパッチ状になった2箇所がhitoeで、それ以外は一般的なストレッチ生地です。

NTTドコモのトランスミッターと組み合わせて使うゴールドウインのC3fit IN-pulse(左)とその仕組みを示した展示用シャツ(右)

NTTドコモのトランスミッターと組み合わせて使うゴールドウインのC3fit IN-pulse(左)とその仕組みを示した展示用シャツ(右)

この製品では、心臓の脈を見ることを中心に設計しています。シンプルな2極(2箇所の電極)で心電位を取ります。

───生体からデータを取る時、現状での課題はなんですか。

フィッティングが重要だと認識しています。身体にシャツがフィットしていないと身体を動かした時に電極がズレてしまったり、浮いてしまったりして雑音が入ってしまうからです。カッティングや立体縫製などの工夫で綺麗な信号を取れるよう、今はアパレルの領域にかなり足を踏み入れていますね(笑)

───今後、どのような応用範囲が考えられますか。

まず、医療用途では「24時間ホルター心電図検査」でも使えるような、着るだけで心電図が測れるものを試作しているところです。他に引き合いがあるのはウェアラブルの分野です。

IoTが進むと、あらゆるものがネットに繋がって新しいビジネスが生まれることが予想されます。人の生体データという、ある意味でユーザーに最も近いデータを取得することは究極の目標ですが、一番難しいテーマです。

腕時計やセンサータイプの製品が先行しましたが、厳しい戦いになっていますね。スポーツ心拍計などもかなり値段が下がっています。半分冗談で「hitoeはウェアラブルじゃなくウェアなんです」と言うのも、そこに巻き込まれないためです。

医療系やハイエンドのスポーツ、工場や建築現場のワーカーズセーフティー(作業者安全)と言われる分野は高い信頼性が要求されるので、まだまだこれからの分野です。障壁の高さも乗り越え、hitoeはそちらに向かって歩みを進めています。

運動習慣を促す技術へ

───予防医療と言われるヘルスケア分野は、国の後押しなどもあって拡大が見込まれます。

医者の経験や医学研究などから、いかに運動が人にとって重要か、いろんなデータからヒシヒシとわかるんです。運動の習慣を持っている人は、どんな医学治療よりも予防的な効果で大きな力を発揮します。

そのため、hitoeの一つの目標として運動習慣というものを設定しました。運動の習慣をつくるためには、自分がどのくらいちゃんと運動しているのかフィードバックされればいいのではないかと思っています。そうしたツールはまだ十分に整備されていません。

hitoeの報道発表以来、スポーツ選手やチームの監督といった方から連絡をいただきました。実際にフィールドで使いながら、さらにいいものを目指すという共同研究のオファーです。スポーツ選手の協力によって、一般ユーザーに対しても健康習慣あるいは運動習慣のいいツールになるのではないかと考えているところです。

───低侵襲、非侵襲の電極で人間の生体データを取れるようにしたいという目標がまずあって、それが短期間で製品化にまで漕ぎ着けたのには、どこかにブレイクスルーがあったのでしょうか。

時代背景というタイミングが良かったこともあるかもしれません。これまで最先端の研究というと、技術そのものに対する関心が高かったんですね。ところが、最近は機械や科学技術への注目が一段落して、今度は「人」に関心が向き始めてきたという気がします。
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その中で、ちょうど社会的な課題として少子高齢化という困難な課題を解決しなければならなくなり、ますます身体をしっかり診なければいけなくなってきました。そのタイミングでhitoeという日本発の新素材が生まれ、周囲の期待を巻き込んで、何かの形にしようという推進力を増しているのが現状です。

技術の生まれるタイミングと社会的ニーズがたまたま合致したとき、こうした動きが一気に起こるのだと思っています。

※1 低侵襲・非侵襲

患者の負担を少なくし、回復も早められるよう、内視鏡やカテーテルなどを使い、手術や検査に伴う痛み、発熱・出血などをできるだけ少なくする医療行為が低侵襲医療。身体に挿入する器具を必要としないCTやMRIなどを非侵襲医療と呼ぶ。

※2 hitoe

最先端の繊維素材であるナノファイバー生地に、導電性の樹脂(※3)を特殊なコーティング加工技術で施すことにより、生体信号を検出できるようにした生地素材。human(人間)、intelligence(情報・知能)、to(~の方へ)、expand(拡張する)の頭文字や、1枚の布である単衣(ひとえ)の無限の可能性という意味が込められている。

※3 導電性高分子

電気伝導性を持つ高分子化合物の呼称。別名導電性ポリマー。「プラスチックは電気を通さない」というそれまでの常識を覆し、1970年代から白川英樹博士らによって研究され、銀行ATMなどに使われる透明タッチパネル、リチウムイオン電池、有機ELや有機半導体など、今日のさまざまな製品を支える基礎技術になった。

※4 白川英樹

1936生まれの化学者、工学博士。筑波大学名誉教授。「導電性高分子の発見と発展」により、2000年のノーベル化学賞をアラン・マクダイアミッド、アラン・ヒーガーとの3人で受賞。

※5 C3fit IN-pulse

ゴールドウインから数タイプが発売されている、着用するだけで心拍の計測ができるシャツ。別売のhitoeトランスミッター(NTTドコモ製)でスマートフォンやスマートウォッチと連動、心拍数の記録をトレーニングに役立てられる。ランナーから送られる心拍データをリアルタイムに音楽やビートに変換するエンターテインメント機能も専用アプリ(Runtastic for docomo)に用意されている。 http://www.goldwin.co.jp/c3fit/inpulse/

※6 24時間ホルター心電図検査

1日24時間の心電図変化を記録して、日常生活における心拍数や鼓動の異常を検出する検査法。1961年にアメリカのノーマン・J・ホルター博士によって開発された。

※7 ワーカーズセーフティー(作業者安全)

作業中に熱中症で倒れたり、乗り物の運転中に発作などを起こしたりといった健康異常を大事故に繋げないための仕組み。現在の工場ではオートメーション化が進むことで一人で長くラインに従事する作業者なども増えており、体調異常の予兆や万が一の事故発生をすぐに把握することが求められる。

科学的知見をスポーツへ

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──2020年に向けて、国内ではスポーツへの関心が高まりそうです。こうした状況で、hitoeの研究はどこまで進むのでしょう。

hitoeは医療用からスタートしているので、できるだけハイエンドスポーツで使えないかと考えています。

例えばロードレースの自転車競技です。現在この競技では自転車も軽量化しながら高度化もして、今どのくらいのパワーで漕いでいるとか、多くのセンサー類が付いていてわかります。選手も心拍計を着けていて、どのくらいの心拍になっているのかモニターしながら、1分1秒を争う戦いをしているのです。

こういう中で、hitoeを使いたいというニーズがあります。佐野淳哉選手のために特別に作ったウェアは、ドライメッシュのウェアの中にhitoeのセンサーが付いており、これで心拍数を測れます。

佐野選手の実際のデータを見ると、山岳路を登ったり降りたりしながら、最後の競り合いでは心拍数が225ぐらいまで上がっています。安静心拍数が60くらいなので、本番のレースでは尋常じゃないレベルで戦いをしているのだと心拍数だけを見てもわかるので驚いています。

──モーターレースのシーンでもhitoeは使われていますよね。

2015年のインディカーレースから、チップ・ガナッシ・レーシングのドライバー、トニー・カナーン選手の心拍がレース中にどう変わるのか調べるプロジェクトをNTTデータに協力するかたちでスタートさせました。

スポーツ選手は割と神経質な方が多いのですが、トニー選手は非常に協力的でこちらのリクエストに応えてくれました。彼とのやりとりを重ねて、実際にhitoeを着て出走しています。
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インディカーは直線のストレートでは時速300キロ以上出るので、F1よりも速いんです。オーバルコースでバンク(傾斜)がかかったコーナーを曲がるので、コーナリングのスピードも非常に速い。そういう中でも心電波形が取れるところまで初年度でなんとか漕ぎ着けました。

トニー選手のデータを解析すると、ブレーキングの時の心拍数のほか、コーナリングの横Gに耐えるために激しい筋電、骨格筋から出るパルス状の信号も取れていました。筋電を理想的に測れた場合には、疲労の度合いや、疲労からの回復過程がわかるのではないかと考えています。

──苦労している点や工夫された点があれば教えてください。

インディカーレースでは、振動や加速、暑さなどの条件が非常に過酷です。例えばスマートフォンのような製品は一発で壊れてしまうほどの厳しい状況なので、トランスミッター類も手作りで専用品を用意しています。

また、レースというのはレギュレーションが厳格なので、着用する服も耐火繊維にする必要がありました。そこで、Nomex ®という素材で新たにすべて作り直しています。研究所で手染め、手縫い、手配線をしているので、私自身もローテクで相当量の作業をしています。
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身体的なコツが把握できる

──ハイエンドのスポーツから得られた知見が、私たちの身近なものとして生かされる事例はありそうですか。

アマチュアとプロの比較を正確にすることで、プロの選手に学びやすくなれると思っています。例えば、アマチュアゴルファーとプロゴルファー、両者の腕と足に多数電極を付けてもらい、ドライバーショットの時の筋電図を測りました。

プロの場合は、特にインパクトの瞬間に最高の力が集中しているんですね。ところがアマの場合、余計なところにたくさんの力が入っている。いわゆる手打ちになっている状態なんです。

また、プロの場合は足の筋力も全体的にちゃんと使われていますが、アマの場合は軸足しか動いていないのもわかりました。この辺りが安定したショットとそうではないショットが生まれる違いなのです。

アマチュアゴルファーもそれなりのフォームで打っている方ですので、高速カメラなどを使っても一見して違いはないんですね。ただし、見た目がそっくりでもリアルなデータを取ると中身が違っている。このように得られたデータから、どの辺りの筋活動が重要なのかしっかり分析するのが次のフェーズです。

──この後のフェーズでは、どんな展開が考えられますか。

生体情報とデータ情報を組み合わせて撮影・記録することで、プロからアマチュアまで、好不調も含めてデータを多数蓄積して、スポーツデータのアーカイブが作れないだろうかと考えています。

それらのデータを元にレッスン本を作るほか、自分に最も合うモデルを選んでモデルに近い信号となるようにトレーニングできるフィードバックシステムを作れるのではないかと思っています。
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映像だけだとなかなかコツが掴みにくいので、身体の中の動きを情報として捉えるということをやっていけば、より早く、より上手になるのではないかと。監督や部活の先生など指導する側も楽になるでしょうね。

効率的なトレーニングが実現

──スポーツチームの運営や選手のコーチングに、科学的な知見が入っていくのはいいことですね。

私の研究は医学寄りで、スポーツでいうと体力作りや基礎代謝に近いベーシックな部分です。2020年に向け、こうした土台の部分をしっかりできるようなツールを仕上げていきたいと思います。なにごとにも効率的なやり方があると思うのです。

整形外科の経験から言うと、あまりに遠回りなやり方を続けると、そのトレーニングで選手が潰れたり、故障したりします。オーバーワーク的にトレーニングを繰り返すと、関節を痛めたり、姿勢が悪くなったりして、かえってトータルのパフォーマンスが低下するほか、情緒的に落ち込んだりするんですね。

ちゃんと休んで、ベストな状態で少しずつステップアップしていくのが大事です。もちろん強いインパクトを与える運動メニューも必要です。精神的な面でも、肉体にある種のパルス状の刺激を与えてステップアップできる場合もあるので、こうしたメニューは否定しません。

ただ、それをルーチンにされると身体の方が参ってしまう人が結構な数でいるんですね。そういうような不幸な事例を減らすようなトレーニングシステムを2020年までにぜひ実現したいのです。

スポーツは個別性が高いものです。体力や呼吸にしても、あるいは回復のスピードにしても個人ごとで違う。それが可視化できるツールを用意して、それぞれに合ったメニューを組み立てられるツールを作ることをhitoeの当面のゴールにしたいと思っています。

──それを2020年までには見られるということですね。

基本的なところをなんとか仕上げなければと、自分に鞭を打ってスピードアップを図っているところです(笑)。
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hitoeの研究が進み、さまざまな付帯情報が取れるようになってきました。最新の成果は、心電波形を元に呼吸の変化が測れるようになったことです。スポーツでは息継ぎが重要なので、hitoeを着て呼吸の可視化ができればトレーニングに役立てられるほか、ヨガの呼吸法なども学習できそうです。

NTTグループは東京オリンピック・パラリンピックのゴールドパートナーをさせていただくので、各種分野で役立つ活動ができるように考えています。そんな中、hitoeを使って何ができるかさらに研究を進めたいですね。


関連情報


※1 佐野淳哉

1982年静岡県生まれの自転車競技選手。2014年「第83 回全日本自転車選手権大会ロードレース(男子エリート)」で初優勝した。

※2 チップ・ガナッシ・レーシング

1990年に元インディカードライバー、チップ・ガナッシが設立したレーシングチーム。本拠地はノースカロライナ州コンコード。2016年現在、インディカー・シリーズやNASCARなどに参戦中。大手小売店のターゲットが長年メインスポンサーを務めるほか、2013年から米国のNTT Data Inc,. もスポンサードしている。

※3 トニー・カナーン

1974年生まれのブラジル出身レースドライバー。1999年のCART(チャンプカー・ワールド・シリーズ)、2004年のインディカー・シリーズ、2015年のデイトナ24時間レースなどで優勝経歴がある。

※4 Nomex ®

アラミドポリマーから作られたデュポン社製の絶縁紙で、高い耐熱性を持つ。消防士の出動服から変圧器の絶縁材まで幅広い業界で活用されている。