Key Person

谷川浩司(将棋棋士)

中学2年生でプロデビュー、21歳で史上最年少名人。
「光速の寄せ」と呼ばれる鋭い棋風で一世を風靡し、
現在は将棋連盟会長として棋界を牽引する棋士に、
ITとAIの時代における将棋のあり方と
時代を超えた魅力について語っていただきました。

人間的知性とAI的知性

プロを目指したきっかけ

1

21歳で名人位に就くまで

谷川浩司(たにがわ・こうじ) 将棋棋士。九段。1962年、兵庫県神戸市生まれ。11歳で若松政和七段に入門、14歳でプロ入り。19歳でA級昇格。21歳で最年少名人となり、以降「光速の寄せ」「光速流」と称される切れ味鋭い攻めの棋風で多くの将棋ファンを魅了する。92年に大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王となり、97年には十七世名人(永世名人)の資格を取得。2002年7月、公式戦通算1,000勝達成。公式タイトル獲得27期、一般棋戦優勝22回。14年、紫綬褒章。現在、日本将棋連盟会長。著書に『常識外の一手』(新潮新書)、『勝運をつかむ』(致知出版社)、『光速の寄せ 振り飛車編』『光速の寄せ 矢倉編』『光速の寄せ 総集編』(マイナビ出版)などがある。

谷川浩司(たにがわ・こうじ) 将棋棋士。九段。1962年、兵庫県神戸市生まれ。11歳で若松政和七段に入門、14歳でプロ入り。19歳でA級昇格。21歳で最年少名人となり、以降「光速の寄せ」「光速流」と称される切れ味鋭い攻めの棋風で多くの将棋ファンを魅了する。92年に大山康晴、中原誠、米長邦雄に次いで史上4人目の四冠王となり、97年には十七世名人(永世名人)の資格を取得。2002年7月、公式戦通算1,000勝達成。公式タイトル獲得27期、一般棋戦優勝22回。14年、紫綬褒章。現在、日本将棋連盟会長。著書に『常識外の一手』(新潮新書)、『勝運をつかむ』(致知出版社)、『光速の寄せ 振り飛車編』『光速の寄せ 矢倉編』『光速の寄せ 総集編』(マイナビ出版)などがある。

将棋を始めたのは5歳のときです。5つ上の兄と喧嘩が絶えなかったので、見かねた父が将棋だったら静かに遊ぶんじゃないかと、将棋盤と駒を買ってきたのが最初でした。当時は遊びもあまりありませんでしたし、男兄弟2人ですから、勝負がはっきり付く将棋は刺激的で魅力があり、すぐに2人で熱中しました。

私は幼稚園のころから天気図の気圧や時刻表など数字の羅列を見るのが好きで、時刻表を見ながら、この電車はこの駅からこの駅までこれだけ時間がかかるから、その間は時速何キロで走るのかを計算したりしていたので、論理的に物事を考えるのが好きだったのだと思います。性格も将棋に向いていたのかもしれません。どんなことでも最初は初心者で勝てないわけですが、そこで面白くないとやめてしまうか、それとも次は勝ちたいと思って続けるか。特に将棋は勝つか負けるかしかない、厳しい、激しいゲームですから、負けず嫌いでないと続きません。私は負けると駒を噛んで悔しがるほどの負けず嫌いでした。

その後、兄は東京大学の将棋部に入り、全日本のグランドチャンピオンになりました。プロの道に進まなかったのは、私が小学校3年生のころからプロになりたいと言っていたからだと思います。兄弟で同じ世界に、特に勝負の世界に生きるのは大変なことですし、トップを争うくらいになればまだしも、仮に大きく差がついてしまったりするとかなり厳しいですから。将棋を始めた歳も、私が5歳で、兄は10歳。こういうことは早いに越したことはないので、それもあったのかもしれません。

私がプロを目指す1つのきっかけになったのが、小学校3年生のとき、東京で開催された小学生大会での優勝でした。いまなら子供の大会はあちらこちらで開かれているので、それに出れば自分の力が全国的に見てどの程度なのかわかります。でも40数年前はいまとは環境が違いますから、神戸ではそこそこ活躍していたものの、全国レベルで通用するのかどうかわからなかった。そうした中で東京の大会で優勝したことは大きな自信になりました。また、神戸で開かれた将棋イベントで2枚落ちの内藤先生と対局し、初めてプロに勝つことができたという喜びを知ったのもこのころです。

奨励会には小学校5年生で入り、中学2年生で四段になりました。奨励会で付いたあだ名は「ワニガワくん」。序盤が上手くないために、苦しい将棋に食らいついて逆転勝ちすることが多かったので、そこから名づけられたようです。高校を卒業して時間が出来ると「谷川将棋研究会」を作り、仲間と一緒に将棋の勉強をするようになりました。当時は公式戦の棋譜は手で書き写すしかないような時代ですから、研究には恵まれた環境ではありませんでしたし、棋士はアマチュアのときはたくさん将棋を指すんですが、プロになると意外に少なく、実際に将棋を指すことは公式戦の対局以外ではほとんどないんです。ですから、1人で研究するのはもちろん大事なことですが、相撲でいう“ぶつかり稽古”も必要だと思ったのです。実践を多く積むことは、勝負勘を養うことにもなりますから。メンバーは奨励会の人が多かったのですが、かなりの人がプロになってくれたので、主宰者としてはうれしかったですね。

21歳のときに名人になれたことは大きな転機となりました。いろいろなことに恵まれていたと思います。当時は30代、40代が非常に強い時代で、大山先生のように60近い方もいらっしゃった。その中で、そろそろ新しい人に出てきてほしいという空気もあったので、それが追い風となりました。もう1つ、私の10代の10年間は中原先生がずっと名人で、まさに中原時代だったわけですが、私がA級八段になって名人挑戦者になる資格を得たその年に、中原名人から加藤名人に替わったんです。それによって将棋界自体が乱世になったような感じだったので、チャンスが出来たんですね。最年少の名人だったこともあって、いろいろなメディアで取り上げられる機会が増え、貴重な経験をたくさんさせてもらいました。

一方で、自分が名人になってもいいのだろうかという気持ちもありました。それまでの名人はほかのタイトルも獲っている方ばかりで、名人=第一人者という感じでしたが、私は名人が最初のタイトルでしたから、自分より強い人はまだまだたくさんいるとわかっていました。自分の力よりも上の地位に付いたことによって、後から実力が少しずつ追いついていったのかなと思います。

1988年、第46期名人戦。中原誠名人に4勝2敗で勝ち、名人に復位する(写真提供:日本将棋連盟)

1988年、第46期名人戦。中原誠名人に4勝2敗で勝ち、名人に復位する(写真提供:日本将棋連盟)

※1 2枚落ち

対局者同士の実力差があるときに上位者側に課されるハンディキャップ(駒落ち)の1つで、飛車と角行を取り除いて対局すること。

※2 内藤國雄(1939− )

神戸市出身の棋士。公式タイトル獲得は王位2期、棋聖2期、一般棋戦優勝13回。「自在流」と呼ばれる華麗な棋風が特徴。2015年現役引退。通算成績は1,132勝1,000敗。詰将棋作家や、70年代には演歌歌手としても活躍し、『おゆき』のヒットで知られる。

※3 新進棋士奨励会

日本将棋連盟が運営するプロ棋士養成機関。年1回入会試験が行われ、六級から三段までの段位がある。会員同士の対局で既定の成績を上げると昇級・昇段し、四段昇段でプロとなる。満23歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日までに四段に昇格できなければ退会する。

※4 大山康晴(1923−1992)

棋士。十五世名人。公式タイトル獲得80期、一般棋戦優勝44回、通算1,433勝781敗。受けの達人といわれ、相手に攻めさせてから指し切りにさせてしまう「受け潰し」を得意とした。

※5 中原誠(1947− )

棋士。十六世名人。24歳で大山康晴から名人位を奪取。以降、防衛9連覇を果たし、一時代を築く。自然に見える手を重ねて優位を築く棋風は「自然流」と呼ばれる。公式タイトル獲得64期、通算1,308勝782敗。2009年現役引退。

※6 A級

順位戦にはA級を頂点に、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスがある。A級~順位戦は名人への挑戦権をかけたトップ棋士10人によるリーグ戦。

※7 加藤一二三(1940− )

現役最年長の棋士。史上最年少の14歳7ヶ月でプロとなり、18歳でA級八段に到達。数々の記録を打ち立てた棋界の立役者の1人。独特のキャラクターから「ひふみん」の愛称で親しまれる。公式タイトル獲得8期、一般棋戦優勝23回。

苦境の中で会得したもの

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美しい手と常識外の手

30代はスランプの時代でした。20代のときは先輩や同世代だったタイトル戦の相手が、30歳から羽生さん世代にがらりと変わったので、予想以上の急な切り替わりに戸惑い、肩に力が入り過ぎていたところもあったと思います。羽生さんとは8つしか歳が離れていないのですが、羽生さんの世代にはもう子供大会もずいぶん増え、みんな小学生のときから厳しい勝負を続けているので、優秀な人たちが多いんです。羽生さんは40代半ばになったいまも圧倒的な強さを見せていますし、そのほかの同世代の棋士もトップで戦い続けていますが、それができるのは小さいときから切磋琢磨して培われた財産があるからなんですよ。私は同世代にライバルが少なかったので、20代の戦いが厳しくなかった分、30代は厳しかった。羽生さんにはずいぶん痛い目に遭いました。でも、将棋は2人で1つの作品を作り上げていく作業ですから、彼と数多く対局をしたことで自分自身レベルアップできたと思っています。

95年の羽生さんとの王将戦は、忘れられない対局の1つです。羽生さんはこのタイトルを取れば7冠という状況で、かつてないほどの衆目が集まる中、第1局が終わった直後に阪神・淡路大震災が起きました。私も被災し、住んでいたマンションはそれほど大きな被害ではなかったものの、避難生活を余儀なくされ、生まれ育った実家のお寺は全壊。そんな非常事態下で対局を続けたのですが、目を覆わんばかりの街の惨状に、将棋を指せることの幸せに改めて気づき、負けることが怖くなくなったというのか、余計なことを考えなくなりました。それまでの1、2年、羽生さんとのタイトル争いはほとんど負けていたので、どうすれば羽生さんに勝てるのかということばかり考えていたんです。でも自分がすべきことは、目の前の対局に専念して100%の力を出し切ることだ、と。そして、対局が終わったら両親や家族との生活をじっくり考える。そんな風にシンプルになれたのがよかったのか、フルセットの末に防衛に成功しました。

いまはインターネットでも対局ができますし、コンピューターソフトも強くなってきているので、プロ、アマを問わず、将棋が強くなる環境が整っていますね。10万局くらいある過去30~40年分の公式戦の棋譜も容易に入手できますから、そうした情報や知識を詰め込むだけである程度のところまでは行けます。ただ、そこから先に行くのは、逆に難しくなってきているような気がしますね。やはり自分の力で考えたり、プロの棋譜を調べたりすることは非常に大事で、そうして初めて身に付くものがあるのだと思います。

私は、過去の棋譜を調べるときはプリントアウトして横に置き、盤と駒を出して自分の指で実際に並べてみます。そうしないとなかなか記憶には残りません。理屈で考えるよりも、指すときの手の動きや視覚的なもののほうが大事なのでしょう。美しい手、美しい型は、当然、自然な手、自然な型でもありますし、そういう手や型は正しいことが圧倒的に多いのです。100%とは言いませんが、だいたい9割くらいは感覚的に美しい、自然なものがいい手になる。ただ、美しくない手でも100点の手であることが10回に1回くらいあるので、それをきちんと見極めなければなりません。

定跡に則った型は確かに美しいものですが、美しい手が必ずしも定跡とは限りません。常識はだんだん変わっていきますから、定跡から外れた常識外の手が20年、30年経ったら普通に指されるようになったり、コンピューターが指したいままでになかったような手が新しい定跡になったりもします。コンピューターは、棋士が考え付かないような意外な手を指してくるので、最初は変な手だなと思っても、よく考えるとこういう理屈があるんだなと納得させられるものがほとんどです。何年か前の名人戦で現れた手が、プロの公式戦では新手だったのですが、コンピューターの世界では有力な手だと言われていたことを知り、驚いたことがあります。

棋士には、勝負師の顔だけでなく、2人で1つの名局という作品を作り上げる芸術家、将棋の真理を追究する研究者の顔も必要です。コンピューターが芸術家たり得るのかというと、すでにその要素を持ち始めているような気がします。実際いまのソフトは、同じ局面でも違う手を指したりする。それは戦術的に相手に研究されないようにするためですが、あながちそればかりではないんじゃないか、と。コンピューターが美しい手を理解できるようになれば、プロのレベルにまた1歩近づき、いまよりさらに強くなるでしょうね。

2013年、第21回富士通杯達人戦。羽生善治三冠に勝ち、優勝する(写真提供:日本将棋連盟)

2013年、第21回富士通杯達人戦。羽生善治三冠に勝ち、優勝する(写真提供:日本将棋連盟)

※1 羽生善治(1970− )

棋士。96年、前人未到の7タイトル全制覇を達成。竜王を除く6つでの永世称号の資格を保持する。数々の偉業を成し遂げ、2013年には史上初となる3度目の名人返り咲きを果たす。公式タイトル獲得94期、一般棋戦優勝44回。

ITで将棋はどう変わったか

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豊かな人間性を育むために

将棋の初手は30通りありますが、そのうち精査するのはプロでも3通りくらいです。つまり9割の選択肢は最初から直感で捨てているのです。2手進んだ局面は論理的には30×30で900通りの可能性があるけれども、2手目の相手の手も大体3通りくらいなので、実際に読むのは3×3で9通り。一方コンピューターは、いまは1秒間に何百万と読めるそうです。それはつまり、すべての可能性を網羅できるということで、人間には絶対できないことです。しかし人間は、いままでの知識や経験をもとに直感で取捨選択できる。そこが強みだと思います。コンピューターも対局を重ねてデータが蓄積されていくことにより、少しずつそういう感覚的なものも持ち始めてはいるようですが、長所と短所は表裏一体なので、ソフトの短所を直そうとすると、別のところで欠点が新たに出てきたり、長所が失われたりすることがあるかもしれない。そこが難しいところで、これは人間も同じです。

将棋は駒が積極的に前に出ていく気持ちも重要で、若手は勢いのある将棋を指すことが多いんです。でもそれは、ともすれば荒っぽさにつながり、ときには暴走してしまう。そういう自分の得手、不得手をどうするかは、すべてのプロ棋士が悩んでいる部分だと思います。また、コンピューターソフトは先入観を持たずに現在の局面で最善手を考えますが、プロ棋士は自分がいままで指してきた手を活かそうと、現在の局面に至るまでの流れで考える。それは人間の長所ではありますが、そこに縛られて新しい発想が出てこないこともあり得るので短所ともいえます。コンピューターは2手前に指した手でも悪い手だと思ったらすぐに改め、平気でまったく違う手を指してきますが、人間にはそれはできませんから。
見ていて面白い将棋というのは、ドラマが生まれるような対局ですよね。時間に追われてミスが出たり、優勢なほうが踏み込んで行けずにもつれて混戦になったり。そういう心理的な駆け引きはコンピューターには通用しませんが、人間同士だと、同じ手でも無名の棋士が指すのと羽生善治名人が指すのとでは重みや迫力がまったく違うんですよ。強い人が指すと、悪い手でも「何かあるんじゃないか」と相手が思うかもしれない。そういうところも将棋の醍醐味ではないかと思います。

いまはパソコンやスマートフォンで5分くらいで勝負が付くような手軽な将棋もあるので、将棋に親しんでいる人はけっこう多いのではないかと思います。将棋は厳しい勝負の世界ですが、名人という言葉だけでも400年以上の歴史がある伝統文化でもあり、エンタテインメントでもあります。そして、様々な力が養われるという点では教育としての効果もあるといえるでしょう。ルールや定跡を覚えることで記憶力が養われますし、思考力や構想力、集中力、決断力、創造力など、私自身将棋を通していろいろな力が身に付きました。
今年の12月で現役40年を迎えます。公式の対局も2,000局を超えましたが、その間、不戦敗もなく健康で続けることができました。将棋は年齢に関係なくできるので、自分が20代のときにA級順位戦で40歳近く年齢の離れた大先輩、大山十五世名人と大きな勝負ができたように、なんとか40歳年下の棋士と大きな場所で戦えるくらいまでがんばりたいですね。いま53歳で、対局ができているのは30歳下くらいまでなので、あと何年かは続けていかないと。そうすることで伝統文化を継承することにもつながるでしょうし、長く現役で戦えることも将棋の良さだと思います。

※この記事は、当社広報誌『INFORIUM』第5号(2016年6月6日発行)に掲載されたものです。